ヨンシの二人の子どもたちも、帰らぬ父親を待ちわびていました。チュニは日ごとに子どもたちの心が沈んでいくあり様を見ると、胸が張り裂けそうでした。それでも、チュニは子どもたちの前では強い母の姿を装い、ため息さえも飲み込み気丈に振舞っていました。子どもたちも父親が帰宅しなくなってから、絶えず母親の様子を伺うようになりました。まだ幼なかった息子も父親代わりに蒔を割り、荷車に石炭を積み手伝いました。母も子どもたちも、ヨンシがいなくても懸命に生きていました。それはいつの日か突然に、何ごともなかったかのように、父親が帰って来ることを信じ待っていたからでした。
そんなある夜、チュニはいつものようにヨンシの布団も引いて、子どもたちと3人で浅い眠りに入ろうとしていた時です。家の近くで車が止まる音を聞きました。彼女は急いで服を着込み灯りに火を灯すと、その足音は門の前で止まり、誰かのささやく声が聞こえました。ただならぬ様子を感じたチュニは、子どもたちを起こし、服を着るように促して素早く食物を詰めさせ、子どもたちの手に飴の塊を握らせました。丁度その時、扉が荒々しく開かれたので、チュニは、急いで子どもたちを隠しました。その時、一家がよく知る人民班長と、3人の見知らぬ工作員が部屋に押し入って来ました。
チュニの脳裏には、父(夫?)を奪われたあの日の記憶が蘇り、知らないうちに大声で、「なぜ、私たちがこんな目に!?」と叫びました。子どもたちも幼いながらも必死に、生きるためにどうしたらいいかと考えを巡らしていました。男たちはチュニを羽交い締めにし、口にはくつわをはめさせました。そして彼女と2人の子どもたちを、軍用ジープに丸め込むようにして乗せ、すぐさま走り去りました。残った工作員たちは、誰もいなくなったヨンシの家に土足で踏み込むと、家中を手当たり次第に荒らし、ヨンシの家財道具一切をトラックに詰め込みました。彼らは、飼育していた豚や鶏の手足も縛って積み込んでいきました。このようにして、ヨンシの残された家族は真夜中に忽然と姿を消しました。人民班長はがらんとした家に鍵をかけ、闇夜の中へ消え去りました。誰もいなくなったヨンシの家は、灯だけがむなしく揺れていました。
チョン・ジフは、手記の最後にこう綴っています。
「この手記を書くことは、本当に胸が痛いことです。この文を綴っていく度に、血がにじむようであり、ナイフで胸を裂かれる思いがしますので、これ以上は書けません。しかし、私の心にまだ多くの痛みが残っていても、私はその痛みから逃げず、目をそらさないことに決めました。私たちは、父や姉一家のように、国家ぐるみの連鎖拉致と殺戮の中で暮らしてきました。そして今日も、我が北朝鮮国民は独裁政権により、このような耐え難い痛みを強いられています。けれども、この痛みは私たちを堅固に、そして勇敢な者へと変えてくださり、主イエス・キリストにあって勝利者となるのです。」
国民を守るべき国家が、ある日突然、守るべき国民に牙を向くのです。このような北朝鮮国家によって捕らえられた人々は、管理所と呼ばれる政治犯収容所に送られます。彼らは、人が考えるような「重罪」を犯したわけではありません。ごく普通の人々であります。彼らは、貧しいながらも、ささやかな幸せと日常を、何の前触れもなく突如として奪われました。しかもその中には、幼い子どもたちも多く含まれています。子供どもたちは、なぜ自分は囚われたか理由も分かりません。子ども時代にしか経験できない、楽しい時間も奪われてしまいます。容赦なく虐げられ、ある者は生命を落としていきます。子どもたちは残虐な場面を目撃し、そのような地獄のような世界で大きくなっていくのです。
神は、一人ひとりの人間をどれほどまでに、愛おしく思っておられるでしょうか。また、一人ひとりの人間の生命をどれほどまでに、尊く思っておられるでしょうか。
「人とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶせました。」 (詩篇8:4, 5)
神は、愛してやまない人間が目を背けるほど虐げられている姿をご覧になる時、どれほど心を痛め悲しんでおられるでしょうか。人間として生きる最低の尊厳さえ奪われ、屠殺所の家畜以下の扱いを受け続けた人間は、理性、知恵、心を、どこかに置き忘れてしまうものです。ただ野にある枯れ木のような存在となり、どこまでも辛酸を舐め尽くし、死へと追いやられてしまいます。これは過去の話ではありません。まさしく現在毎日、起こっている事実であります。今、北朝鮮と韓国は、10年以上振りに南北首脳会談を行いました。朝鮮半島をめぐる外交活動は、活発化しつつあります。けれどもその裏側の北朝鮮国内では、このように多くの国民が独裁国家に閉じ込められ、そして苦悶の日々を過ごしています。
北朝鮮において、キリスト者は最も重い罪人として扱われ、多くの兄弟姉妹たちが、その信仰のゆえに捕らえられています。彼らは、私たちの祈りを何よりも必要としていることを、決して忘れないでください。次号では、この世で最も悲しい場所である政治犯収容所の実態に迫り、この現実を少しでも知って頂きたく願っています。
(注:氏名はすべて仮名)
(つづく)
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