身も心も疲れ果て、死に物狂いで山中をさまよっていたハン・チョルスは、辛うじて生きながらえ、中国吉林省にあるチャンベク県(長白朝鮮族自治県)にたどり着きました。その地の教会へと導かれ、朝鮮族の伝道師たちに助けられました。彼らはチョルスを迎え入れ、食膳にはチョルスのために用意された温かい食事が並べられていました。まともな食事にありつけるのは、何日ぶりだろうかと嬉しくて食膳に向かうと、お祈りが始まりまし
た。チョルスも伝道師に次いで、初めて祈りの言葉を口にしました。伝道師は祈りの中で、神様のことを「アボジ(お父様)」と呼び、そのあと彼は「お父様、あなたの愛する息子のチョルスが帰って来ました。」と祈り続けました。チョルスはあれほど空腹だったにも関わらず、ご飯を食べるのも忘れ、その祈りを聞いて唖然としてしまいました。
神が私の父だと言うのか。その神が切なくなるほどこの私を愛し、私を探し求め、そして今、この場所に神がいるというのか…もし、本当に神が存在し、私を愛してくれているのなら、その神を見つけたいと考え、教会内を徘徊しました。そして、一つの部屋を見つけ、その部屋のドアをそっと開け、中に入ると十字架がありました。チョルスはその十字架に向かい合ってみました。やがて涙がとめどなく溢れ、彼は大声を上げて泣き崩れました。それは目には見えなくても、確かに父なる神が息子に手を伸ばし、ようやく探しあてた我が子をしっかりとその手で抱き締めた瞬間でした。魂が飢え渇き切った息子は、その顔をまっすぐ父に向けたのです。イエス・キリストを救い主として受け入れ、新しくされた主人公、ハン・チョルスの第2章の人生の幕が上がりました。
チョルスは教会で訓練を受け、その賜物を生かして賛美者として、伝道師として用いられ、成長していきました。そして、自分と同じ脱北者である美しい女性ウネと出会いました。ウネと共に祈り始め、やがてチョルスは宣教師として派遣され、多くの魂たちを救いに導く喜びを経験しました。チョルスはこのような祝福を、祖国北朝鮮でも見たいと願い、福音を携えて中国をあとにしました。ところが、チョルスが北朝鮮に戻ると、その地で起こされている奇跡に目を見張りました。神を一切否定し、国家の指導者だけが絶対神だと国民を洗脳しているこの国で、多くのキリスト者が存在し、彼らの燃えるような信仰により、地下教会が密やかに輝きを放っていました。
また、実家に戻ると、母は既にイエス様への信仰を持っており、祖母から信仰の根を受け継いでいたと打ち明けてくれました。自分が北朝鮮で福音を伝える前から神は既にそこにおられ、偉大なるみわざを成し続けておられるのです。かつて、この国でスポットライトを浴び、華々しく生きていたけれど、今のチョルスにはもうそんなスターの座に何の未練もありませんでした。父なる神の導きで自分は生まれ変わり、かけがえのない幸せな仕事に召されたことが嬉しく、感謝と賛美を捧げずにはいられませんでした。この国では、かすかな声でしか賛美を歌うことができなくても、きっとその賛美は誰にも塞き止めることができないほど力強く、絶えず流れる川のようでした。
故郷の地下教会の聖徒たちから力と更なる信仰を得たチョルスは、再び中国に戻って来ました。中国の地に初めて足を踏み入れた時は、亡国奴でしかない自分に嘆くしかありませんでした。でも今は、父なる神は彼に天という新たな国籍を与えて下さり、その国の民であることが誇りでした。チョルスは中国で愛するウネと再会し、他の脱北女性たちと共に行く先々で福音を伝えながら、この良き知らせを宣べ伝えていきました。彼は朝鮮半島だけでなく、広大な中国大陸、やがては地の果てまで神の国を伝えることを思い描くようになりました。そんな時、中国公安員が、チョルスの周辺で監視体制に入っていました。そして、とうとうある日、チョルスは秘密警察に逮捕されてしまいました。
チョルスが福音を伝えることなく、単なる生きる道を模索するただの旅人だとしたら、公安は彼を見逃したかもしれません。彼らは、チョルスが韓国諜報機関に接触したと自白するよう執拗に迫り、拷問にかけました。とうとうチョルスは、中国秘密警察に協力するという誓約書を書かされることによって釈放されました。そのような誓約を強いられたチョルスは、中国に留まることが困難になり、韓国に行く決心をしました。監視の目を潜り抜け、神はチョルスを韓国まで連れて行ってくれました。やがて、ウネも韓国に入り、ふたりは韓国で結婚しました。そして、チョルスは韓国でも声楽家としての才能が開花し、テノール歌手として名を馳せ、話術にも長けていた彼は、芸術団のMC(司会進行者)としても活躍するようになりました。亡国奴だった彼が大韓民国で一躍スターとなり、堂々たる国民になったのです。飢えに苦しみ、惨めな姿でさまよっていた自分はもう何処にもいませんでした。韓国内だけでなく、アメリカなど海外まで渡り、歌手としての成功を納め、富と名声を手にしました。北での彼は、自分の夢を途中で断念したけれど、南ではその夢の続きを叶えました。夢が実現し、富も名誉も手に入れたはずなのに、チョルスの心から次第に喜びが消え失せ、闇へと閉ざされていったのです。ずっとチョルスのそばから離れずにいる、父なる神の手を振り解き、その息子チョルスはいつの間にか、自分でも気がつかないほど父から遠く離れ、再び迷い出ていました。
(名前は全て仮名です)(つづく)
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