地の果てまで(後編)
無敵から無力へ
イム・ヨンソンは北朝鮮国家への忠誠心から一変し、反旗を翻し、保衛部の闇の勢力と手を組み、ロシアに拠点を移しました。ロシアマフィアとの取引の中で、ありとあらゆる悪に手を染め、大金を荒稼ぎしていた彼にも、これらの悪行を清算する時がやって来ました。真冬のシベリアで保衛部から追われる身となってしまい、彼は力尽きてアムール川のほとりで気を失いました。凍死寸前のヨンソンでしたが、かすかな意識の中で、誰かの力強い腕が彼を抱え上げ、何処かに運ばれて行くのを感じました。意識が戻り、重い瞼を開き始めると、ぼんやりと見知らぬ人々が目に映りました。アムール川のとある島に住む小さな種族の族長が、川のほとりで倒れていたヨンソンを発見し、自分の家に連れてきて、彼を介抱してくれました。シベリアの辺境地に住む少数民族の彼らは、彼らの民族語で会話していましたが、ロシア語も堪能でした。神は祖国北朝鮮から遠く離れたこの地でも、神の御国を広げるために用いる器として、ヨンソンを引き寄せられました。それゆえに、これまで何事にも怯むことなく、無敵であったこの男を、無力な姿へと戻すという陶器師なる神の御手が動き始めました。

北朝鮮が誇る大マスゲーム
乾いた心に咲いた一輪の花
族長とその家族の献身的な助けによって、ヨンソンは次第に体力も回復してきました。体が動けるようになっても、生命を狙われているがゆえに、自分の家に戻ることはできませんでした。そんな彼の事情を悟ってか、族長はヨンソンに漁を教え、魚を獲る仕事を与えました。全ての生命に感謝しながら、自給自足でシンプルに生きる彼らの姿が、ヨンソンの目には新鮮に映り、彼も次第にこの種族の生き方に順応していきました。それまでは金政権からの逃亡者であり、悪に手を染めていた彼のもう一人の姿は、すっかり息を潜めていました。族長はヨンソンの男らしい気質に好意を持ち、彼を心から信頼するようになりました。彼を本当の家族として迎えるべく、自分の娘を妻にしてはどうかと勧めてきました。ヨンソンは自分よりもずいぶん年若い娘をそのように考えたこともなく、その提案に驚き、ためらいました。けれども彼女は、年が離れていても実直で純朴なヨンソンに惹かれ、彼の妻となることを快諾し、ふたりは結婚しました。これまで多くの敵に囲まれ、いつ生命を落とすか分からない自分が恋人をつくり、ましてや家庭を持つことはあり得ないことでした。そんなヨンソンにとって若く愛らしい妻は、彼の乾き切った心に咲いた一輪の花のようでした。彼は自分にも守るべき存在が与えられ、生きる喜びが湧いてきました。
冬の夜空に響く声
ヨンソンに生きる力を与えてくれたのは、妻や家族の存在だけではありませんでした。妻は以前、韓国人宣教師を通じて福音を初めて聞き、イエス・キリストを救い主として受け入れ、イエス様の弟子として生きていました。また、義父もイエス・キリストを信じ、彼らの生活の中心はいつも創造主なる神に基づいていました。妻はイエス様を信じた当時、ロシアで神学を学び、伝道師としての按手を受けていました。彼らから神のみことばを聞いた時、ヨンソンが心に秘めていたあるできごとの謎が解けました。彼がアムール川のほとりで意識を失う前、シベリアの暗い冬の夜空に大きく響くような、恐ろしい誰かの声が確かに聞こえました。それは誰が何と言ったのか、それとも自分が夢を見ていたのか分かりませんでした。しかし、いつまでも心に鮮明に残っている不思議な体験でした。けれども、妻から福音を聞いた時、それは明らかに神の声であり、まるで自分に「悔い改めて生きよ―。」と言っていたのではないかと確信しました。自分が保衛部から追われ、シベリアの辺境地まで流されて、この家に導かれたのは、神と出会うためであったとヨンソンは痛感せずにはいられませんでした。
地の果てまで導く十字架の道
現在、ヨンソンは妻と共に地下教会を開拓し、宣教師たちも入ることがままならない地域の民族に福音を伝え続けています。彼は以前、連携していたマフィアたちにも福音を分かち合い、幸いにもその仲間たちはヨンソンの身の安全を保護してくれています。ヨンソンと妻の間には一人の息子が生まれ、息子も両親から信仰の遺産を受け継いで生きています。ヨンソンのこの数奇な人生は、神の栄光がさらにこの地で輝くためでもありました。
福音は聖霊の力によって、やがて地の果てまで宣べ伝えられる―というイエス様のことば通り、初代教会の使徒たちからヨンソンのような現代のキリスト者たちに至るまで、神の御国を広げるたすきは今日も何処かで繋がれています。しかし、そんな彼らが歩いた道は花咲く道ではなく、イエス様が通られた十字架の道へと続き、決してたやすいものではありません。ヨンソンはロシア正教に属さないプロテスタント教会を迫害する国で、地下教会を導き続けています。また、多くの宣教師たちをその地で待ち受けるものは、歓迎ではなく冷遇です。しかし、それでも彼らは人々を愛することを諦めません。使徒パウロは3回に渡る宣教の旅で、幾多の困難に遭遇しましたが、結局彼はローマ帝国内にキリストを宣べ伝えました。
彼らは何故、このような苦難にも屈することなく、キリストを伝え続けることができたのでしょうか。それは、彼らに何が起ころうとも、またここが地の果てに至る十字架の道であるとしても、すでに見えていたからでした。それはイエス様がパウロに与えられた 励ましのことば、「この町にはわたしの民がたくさんいるから」という景色がいつか成就されることを…。
「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたと共にいるのだ。(中略)この町には、わたしの民がたくさんいるから。」
(使徒の働き 18章9-10節)
(名前は全て仮名)(つづく)
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