今日私は林檎の木を植える
今日私は林檎の木を植える
「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、今日私は林檎の木を植えるだろう―」
マルティン・ルターのこの名言は、何世紀にも渡り、今日も励ましと希望を人々に与え続けています。どのような状況に置かれようとも、たとえ明日のことは分からなくても、全能者なる神だけを見上げ、自分に与えられたこと、今できることを精一杯やるという決意と行動の大切さを教えてくれます。
ここに、主の旅人として、荒野の道を歩き始めた、脱北者たちの共同体があります。彼らには明日が見えなくても、それぞれが神から受けた恵みを握り締め、彼らの使命と希望の象徴である「林檎の木」を、今日も彼らは何処かで植えています。今月号は、2023年12月号「光あれ」で掲載した、脱北者教会のその後のストーリーをお届けします。
新しい息吹のはじまり
神が脱北者たちに与えられた召命は、彼ら全員がもはや難民ではなく、神に選ばれたディアスポラとして生きる道でした。脱北者のコミュニティから成るこの共同体に、神はさらなる新しい挑戦をお与えになりました。これまでの韓国教会や宣教団体に依存してきた北朝鮮宣教から脱却し、自らの手で、祖国に残してきた家族や同胞たちを救済せよと神は彼らに語られました。彼ら自身が経済的に、そして霊的に、自立することを目指し、教会の開拓へと導かれました。彼らは土地や建物を探し、ソウル郊外で廃墟となった障害者施設を見つけました。彼らはこの土地の名義人に全ての資産を渡し、何も持たないままこの地に移り住み、教会員たちは自分たちで荒れ果てた建物内部をリフォームしました。信仰と生活が一つになる拠点として、開拓された「新しい息吹教会」が誕生し、教会員たちはそれぞれの賜物を用いて、そこで事業も立ち上げました。自然農園、北朝鮮料理レストラン、ヒーリングセンターを開店させても、働いている教会員たち全員が何よりも先ず、神との関係を重きに置くようにと、働き方に工夫を凝らしました。彼らの1日は祈りと御言葉で朝が始まり、日中はそれぞれが置かれた場所で働き、夕方は礼拝で締めくくりました。日曜日は近隣住民や南北の聖徒たち、あらゆる人々のための主日礼拝と子ども礼拝が行われました。教会内ではもちろん、些細な問題は様々ありましたが、彼らは互いの愛と赦しと信仰によって乗り越え、まさしく使徒行伝2:44~47の御言葉を体現したかのような教会へと成長しました。
眩い光に包まれながら
事業も軌道に乗り、教会員たちに変化が見られました。これまでは人々から与えられ、受けるだけであった彼らが、イエス・キリストの弟子として、人々と神のために喜びを持って仕え、受ける人から与える人へと変えられていきました。また、彼らは祖国北朝鮮を越えて、中国やロシア、中東を経て地の果てまでビジョンを抱くようになりました。実際に彼らはイスラエルや中東の国々を訪れ、その国の人々を知り、仕え、彼らのために祈り、またそれらの地の宣教師たちを手伝いました。彼らの内にある聖霊の炎は、自国北朝鮮だけでなく、彼らが出会ったことのない民族や国々まで祈りが及びました。これまで自分自身の生活だけで精一杯であった、教会員たちの狭かった目線は、いつしか遠い世界にまで目が開かれるようになりました。この3年間、多くのたましいがイエス様と出会い、家庭が回復し、癒しを経験し、10人の新しいいのちが産声を上げました。事業を通して与えられた祝福も、資金とともに救いの良き知らせを定期的に故郷に届けることもできました。このように「新しい息吹教会」は、眩い光に包まれながら前進していくことを、誰もが信じて疑いませんでした。
私たちが植える林檎の木
全てが順調に見えたこの教会にも悩みの種があり、やがて大きくなったその種は、この共同体を追い詰めていきました。この教会の土地の売買契約書を誤って締結してしまったことが発端となり、教会側が契約金など全て支払い、購入したはずの土地にも関わらず、土地の持主と争う姿勢となりました。結局、相手側の訴訟により教会は第一審で 敗訴しました。この法的闘争は、社会主義を背景に持つ彼らにとって個人の責任を自覚するきっかけを与えてくれ、民主主義による法治を学ぶ時となりました。第1回公判前、教会は「悔い改めと感謝」をテーマに、神様がこの3年間して下さったことへの感謝を掘り起こす時間を持ちました。もし、彼らに経験や法の知識があったなら、きっと教会を始めることはできず、ここで与えられた恵みの多くは決して受け取れなかったことに気付き、ただ神への感謝が溢れました。先日、彼らは裁判所の通知により、土地の立ち退きを命じられました。彼らは控訴し、一旦は執行停止通知を受けましたが、結局、自分たちの主張を手放し、全てを神の御手に委ねることにしました。「新しい息吹教会」は全てを引き払い、礼拝堂を空にし、事業は全て廃業手続きをしました。寒いこの冬に彼らは家を追われ、荷物を整理することは容易ではありませんでした。しかし、かつて北朝鮮で食べ物がない中で、かろうじて生き残り、また裸同然で必死に祖国から脱出した日々に比べると、この状況は彼らにとっては贅沢にさえ感じました。もはや教会堂はありませんが、彼ら一人ひとりが教会であり、彼らが今、立っているこの場所こそ、礼拝すべき聖なる場です。荒野の道を選んだ彼らが植える「林檎の木」とは、主を礼拝するために生き、ディアスポラとして全ての造られた者に主の救いを告げ知らせる―それは、私たち全てのキリスト者も同じではないでしょうか。

ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(1コリント15:58)
(名前は全て仮名)(つづく)
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