北の国のエステル

バビロン捕囚から50年の時を経て、エルサレムに帰還したユダヤ民族が希望に湧く影で、ペルシア帝国では少数民族として、取り残されたイスラエル人たちがいました。その中で、時代の波に翻弄され、自分が意図しない場に置かれたひとりの少女がいました。王の道楽に過ぎないハーレムに置かれた彼女は、王妃の座を勝ち取っても自由は無く、王宮でさえも彼女にとって安全な所ではありませんでした。けれども、彼女はその不自由な環境に屈することなく、自分ができる事を精いっぱい成し遂げ、生命を賭けて神に従いました。その彼女の信仰は、ユダヤ民族を絶滅の危機から救い、彼女は歴史にその名前を残しました。今月号のヒロインも、名も無き少数民族の閉ざされた地で、イエス・キリストに出会った人です。彼女もこの迫害地において、生命を賭けながら神の御心を成し遂げる、北国のエステルではないでしょうか―。

全体主義教育を受ける子どもたち

白銀に閉じ込められた狭い世界

1980年にシベリア辺境地の少数民族として、チョウ・イェリンは生まれました。しかし、イェリンの家系のルーツは朝鮮半島で、南朝鮮出身の祖父が満州を経て、この北の地に流れついて定住しました。この地で生まれ育った彼女の父やイェリン自身のアイデンティティは、朝鮮民族としてではなく、ロシアの片隅で極寒の地を生きる共同体の一員であることでした。漁業や狩猟を生業とした荒々しい男たちは、度数の高い酒と麻薬にふけりながら、長く寒い夜を過ごしていました。そんな大人たちの中で生まれ育ち、成長期になったイェリンも、早々と酒や煙草に溺れるようになりました。果てしなく続く白銀の世界だけを見て育ち、彩り豊かな他の世界を知ることもなく、毎日同じ顔ぶれと顔を合わすだけの変わり映えのない日々でした。魚と獣臭が漂う家の中で、煙草の煙を燻らせるイェリンは、物憂げな毎日にただ流されるように生きていました。父はこのコミュニティの長にもかかわらず、荒んだ生活を送っているイェリンに手を焼き、娘を正しく導くことができませんでした。

誠実な心を映す瞳

ある日、暗い夜明けに出かけた父が、凍りついて死人のようになった正体不明の男を連れて帰って来ました。このような辺境地に旅人がやって来るのは稀であり、男は意識は朦朧とし、やせ細り、とりあえず家族で彼を看病することになりました。しばらくして意識が戻った男は、自分の身の上話を少しずつ語り始めました。男はロシアに派遣された北朝鮮人で、麻薬の密売や密猟などで外貨を稼ぐという特別任務を遂行していました。しかし、彼は保衛部を裏切り銃を持ち出して逃走しました。そして、保衛部から追われ力尽きて倒れていたところを、イェリンの父に助けられたというのでした。体力が回復しても、自分の家に戻ることができないその男を、はじめは警戒していたイェリンでしたが、彼の瞳は誠実なその心を映すかのように思えてきました。父はそんな彼に漁を教え、やがて、彼もこの家の稼ぎ頭となり、父や一家からの厚い信頼を得るようになりました。父はこの男に息子となって欲しいがために、彼に一人娘のイェリンを妻として迎えることを促しました。驚いた彼は、この家の大切な一人娘で、ずいぶん年若い女性を嫁にすることを躊躇しました。ところが、当のイェリンは彼との結婚を快諾し、ふたりは兄と妹のような家族関係から夫と妻という新しい関係に変わりました。

天の門に変わった場所

夫は妻となったイェリンに1冊の聖書を見せました。夫は以前に出会った、韓国人宣教師から贈られた聖書を大切に持っていました。夫はその宣教師や自分と同郷の脱北者の牧師を通して、生ける真の神を信じるようになりました。そんな時、夫は保衛部から追われる身となり、死の淵をさまよった日、神と人格的に出会いました。黙って聞いていたイェリンは、これまでただ虚しくて、実はとても孤独であった自分の胸の内を夫に打ち明けました。そんな新妻の痛みを知った夫は、彼女を抱き寄せながら、彼女が生まれてきた意味やイエス・キリストの十字架による真の救いについて教えてくれました。夫から初めて神の愛を聞いた彼女の心に、聖霊様が触れて下さいました。―イエス・キリストはこんな私のために、全てを賭けて愛して下さった―。これほどの大きな恵みが既に与えられていたのに、どうして私はその恵みを無駄にして、今までこんなに罪深い生活を送っていたのだろう―と。彼女はイエス様の十字架を通して、自分の罪深さをはじめて知りました。そして、寒いだけで何も無いこの地で、神様は自分にも、ここに置かれた目的がきっとあるはず―と神の御計画に期待するようになりました。彼女にとって嫌いだったはずのこの場所が、今では何故か天の門のように、愛おしさがこみ上げる場所へと変わりました。

誰もがエステル

イェリンはイエス・キリストの弟子として歩み続け、神学課程を修了し、伝道師として献身し、夫と共にこの地で地下教会を開拓しました。宣教師たちも立ち入ることが困難な地域に、イェリン夫婦によって福音の種まきがなされ、聖書はおろか、神の存在さえ知らなかった人々が、イエス様と出会う御わざが起こされました。ロシア正教に属さないプロテスタント教会を迫害するこの国で、今日も彼らは地下教会を導き続ける神の勇士たちとなりました。

まさしく、エステルがイスラエルの民を滅亡の危機から救ったように、チョウ・イェリンもこの辺境地に暮らす民族のたましいを滅びから救う「この時のため」(エステル記4:14)に、天のお父様がこの地に置かれました。そして、私たち誰もが今、置かれたその場所は、神の御手が動く「この時のため」に、生かされているエステルなのです。

あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。(エステル記 4:14)

 (名前は全て仮名)(つづく)

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